腐人日記-腹を割いたら黒かった- HOME > スポンサー広告 > スポンサーサイト> 腹黒読書 > 世阿弥探求 最終回
10 | 2017/11 | 12
Su Mo Tu We Th Fr Sa
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -




スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

世阿弥探求 最終回

いきなりかい!っちゅーツッコミがきそうだが、
もうこれ以上はやる気ありません!の、
意思表示タイトルです。はい。

経緯がわからない方もいらっしゃるやもしれませぬので、
ざっと説明すると、
『仕事をしたつもり』っちゅー本に紹介されてた
世阿弥の言葉を引用したら、
「それ違うんでは?」というツッコミがきたので、
検証してみました、ってな話。

うわ、なんてざっくり・・・。

もっと詳しく知りたい方は、
2012-05-25腐人日記 
 「あかんやろ!」
2012-06-05腐人日記 
 「いろいろフォロー・・・スミマセン (-_-;)」
2012-06-08腐人日記
 「読んでみたぞ、の『風姿花伝』」
あたりをお読みください。


そんで。
「読んでみたぞ、の『風姿花伝』」で解決できてなかった
残りの2つ、解けました。
ばんざーい!ばんざーい!ヽ(^o^)丿

ま、そゆことで、今日はそのご報告ざんす。


まず最初に、命題を復習しておくと、
こちらになります。

2) 「芸を演じる人は、「関心演目」
 自己こそ最高の観客とすべし」
 というのがあるか。

3)この2)は、
 この意味なら「離見の見」ではないか。


ゆっちゃぁなんだが、
腐人は能にも古典にもちぃぃぃぃっっとも興味がない。

ついでにゆーと、世阿弥の「風姿花伝」ってのは、
自己啓発系のビジネスセミナーとかでよく題材になるんだが、
ぶっちゃけ、腐人はこの類が大嫌いだ。

腐人にゃー、あれ、コンサルと同じく、
金をドブに捨ててるよーなもんに
みえてならんのよ (~_~)。

ま、それはいいや。

この2と3、腐人はてっきり『風姿花伝』
載ってるもんだとばっか思ってたんですが、
載ってなかったんだよなー。

出てる能楽論を1冊づつ借りて返して・・・って
ちまちまやるのがイヤだったんで、
今回、世阿弥の能楽論を全部あつめた
『世阿弥能楽論集』ってのを借りてみた。

そんで初めて知ったんですが、
『風姿花伝』ってのは、世阿弥の能楽論の中でも、
前期に書かれたもんで、
実はもっとたくさん能楽論を遺してらっしゃる。

へー・・・そうだったんだ・・・。
だから・・・こんなぶっとい本になるのね・・・(-_-;)

今回も、人力検索機と化してサーチしただけであって、
内容を理解するまで読んでないんですが、
いわゆる芸の論のみならず、
世阿弥自身が抱いた思想的なもんとか、
境遇から得たものとかが、
年代ごとに反映されてるみたいですねー。

古典としてみるか、
思想本とみるか、
能楽論文とみるか、
ま、それは読み手によって違ってくるんでしょうが、
この本は、各本の底本解説、体系分析、細かい注釈に現代語訳つきで、
どの立ち位置で読むにしろ、
非常にわかりやすく作ってあるなぁと思った。

ご興味ある方は、ぜひどーぞ。

検索しただけなので、カウント除外のため、
こちらで、紹介しときます。

たちばな出版 「世阿弥能楽論集」 小西甚一 2004.8発刊

で、以下、検証結果を述べていきますが、
最初に断っときます。

以下にでてくる原文や訳文は、
この本を元にしておりますが、
腐人の転記ミス変換ミスがないなんてことはありえません。

1円にもならねぇ暇つぶしブログなので、
目を皿のようにしての校正なんぞしちょりませんとも!
    ↑
  威張ってゆーな!


よって、これをそっくりコピペした場合、
間違ってる可能性があります。

もしされる方は、その辺、自己責任でお願いします。

ゆったかんねー!


では、お嬢様方、謎解きにまいりましょう。
・・・って、あの本、読んでないから
決め台詞しらねぇんだよ・・・(;一_一)。


さて、2)の命題ですが、2つの問題を孕んでいる。

一つは、「関心演目」という言葉。

これがねー、なかったんです。
能楽論集を最初から最後まで検索しても。

なので、
「かんしんえんもく」
で検索してみた(注:人力です)。

すると、ヒットあり。
これ、どうやら、正しくは、
「閑心遠目」
かと思われます。

腐人が写し間違えたかなぁ・・・ポリポリポリ・・・。

愛用しているポメラちゃんの辞書は、
デフォルトでは、かなーりおバカちん。
勉強させたらいいんだろうが、面倒なので
ほぼデフォルトのまま使用してる。

だから、変換がなーい!ってなることが多く、
そういうときは、カタカナとかにしてるんだが、
そこらの変換でミスったかなぁ・・・。

で、そのまま気づかず、
スルーしてUPしてしまったかもしれない。

前も書きましたが、もう腐人の手元には
『仕事をしたつもり』がないため、
実際のところどうだったかは、わかりません。
そこまで覚えてないし。

なので、気になる方は、
本を入手して探してみてください。


で。
世阿弥の話に戻りますが、
この「閑心遠目」は、
『人形』という世阿弥が中期に書いた本(※)に載っている。
同じ頃、『花鏡』などが書かれてます。

※本当は本じゃなくって書なんですが、
ここで書とゆっちゃうと、書道作品に誤解されそうな気がするので、
本、とさせてもらいます。


『人形』という本の内容は、
前期の頃、『風姿花伝』の第二篇に書いた
「ものまね」を更に深めたもの、
っちゅーたらええんじゃろうか。

ま、ゆーなりゃ役作りの演技指導本?

本当に正しく知りたいときは、
すんませんがご自身で能楽研究してください・・・。

で、「閑心遠目」ですが、
これは老体を演じるときの
ポイントとゆーか、基本姿勢のこと。
世阿弥は、「髄体」っちゅーてます。

具体的にゆーと、
「心を静かにして、遠くを見てる姿勢」
つまり、
年寄りの目はぼけてかすみますよね?
だから遠くがはっきり見えてない、ちょっとぼぉっとした姿、
この姿勢をとって、
それに衣装を着せたら、そんだけで老体にみえる、
この体つきを忘れず演技しろ、
ってなことをゆーている(と思われます)。

老人を演じるときに、
これがキモだってことは、変わらないので、
後期の本である、『拾玉得花』にも書かれてます。

余談になりますが
女性を演じるときは
「体心捨力」(女性の心情になって、体から力を抜く)、
軍人の場合は、
「体力砕心」(体に力がみなぎってる風を装いつつ、心情を細かく表現する)
っちゅーのがポイントらしーっす。

と。
ここまで書いたらおわかりかとおもいますが、
世阿弥の言う「閑心遠目」という言葉に、
自己こそ最高の観客とすべし、
という意味はありません。

うーん・・・どっからその意がきたかなぁ・・・。
これがこの命題のもつ、2つめの問題。


3)の命題になってる、
「離見の見」がそれなんかと思って、
次にそっちを探してみました。
もし意味がそれと合致したら、一挙両得ってことで。


「離見の見」は、すぐみつかった。
世阿弥が中期に書いた『花鏡』っちゅーのに
でてきます。
が、世阿弥が作った言葉ではなく、
元はといえば、禅語なんだそうで。
へー。

この対になる言葉を、「我見」という。
意味としては、主観的視点、とでもゆーところか。

それに対して離見が存在し、
恐らく「我より離れて見る」で、「離見」なのかな?
こちらの意味は、客観的視点というところのよーです。


んで、『花鏡』では、こんな風に書いてました。

これで最後にしたいんで、読み間違えのないよう
長文ですが、がっつり引用。

下に現代語訳つけますんで、
なんならここすっとばしてください。
引用ミスもあるかもだし・・・(;一_一)。

【原文】
舞に、目前心後と云ふことあり。
「目を前に見て、心を後ろに置け」となり。
これは、以前申しつる舞智風体の用心なり。

見所より見る所の風姿は、わが離見なり。
しかれば、わが眼の見る所は我見なり。
離見の見にはあらず。

離見の見にて見る所は、すなはち見所同心の見なり。
その時は、わが姿を見得するなり。
わが姿を見得すれば、左右前後を見るなり。

しかれども、目前左右までをば見れども、
後姿をばいまだ知らぬか。
後姿を覚えねば、姿の俗なる所をわきまえず。

さるほどに、離見の見にて、見所同見となりて、
不及目の身所まで見智して、
五体相応の幽姿をなすべし。

これすなはち、心を後に置くにてあらずや。
かへすがへす、離見の見をよくよく見得して、
眼、まなこを見ぬ所を覚えて、
左右前後を分明に案見せよ。

さだめて、花姿玉得の幽舞に至らんこと
目前の証見なるべし。


【現代語訳】※ベースは「世阿弥能楽論集」。若干腐人編集あり
舞の注意に、「目前心後」ということがある。
「目を前に、心を後ろに置け」という意味で、
前にゆーた舞智の演じ方における心がけのことだ。

観客席からみる役者の演技は、
客体化された自分の姿である。
つまり、自分の意識する自己の姿は、我見であって、
けっして離見で見た自分ではない。

離見という態度で見るときは、
観客の意識に同化して自分の芸を見るわけであって、
そのとき、はじめて自己の姿というものを
完全に見極めることができる。
自分の姿を見極めることができれば、
前後左右、どこだって完全に見るわけである。

けれども、自分の眼で自分の姿を見れば、
目前と左右だけは見られるが、後ろ姿はわからない。
自己の後ろ姿を感じとれなければ、
たとえ姿に洗練を欠く点があっても、よくわからない。

だから、いつも離見の見をもって、
観衆と同じ眼で自己の姿をながめ、
肉眼では見えない所までも見極めて、
身体全体の調和した優美な姿を
完成させなければならない。

そして、これは、すなわち、
心を自己の後ろに置くという次第ではないか。
どこまでも離見の見ということをよく理解体得し、
「眼は眼自身を見ることができない」筋あいを腹に入れて、
前後左右を隈なく心眼でとらえるようにせよ。

そうすれば、花や玉のように
優美な芸の理想郷に達することは、
はっきり立証されるであろう。



・・・っつーことで、
要は、常に客観的視点を忘れるな、
っちゅーことかと、腐人は読んだ。

ああ、なんておおざっぱ・・・(ーー;)。

本気で知りたい人は、以下同文・・・。


この能楽論集を検索してると、
この「離見の見」ってのは、
世阿弥の一つのキーワードだったようで、
他にも『五位』『遊楽習道風見』『九位』などにもでてくる。

そして、それは、
演じる側においての離見の見と、
見る側においての離見の見の
両方が語られてたりする。

えーい!と、まるっとまとめちゃうと、こんな感じ?

★演者にとっての離見の見
 →演者が自覚的な意識を離れ、
  観客席から自分をながめるような心の持ち方

★客にとっての離見の見
 →観客が自覚的な意識を離れ、
  精神のもう一つ深い層で演者の芸に接すること


という領域まで解釈を広げていくと、
正直、これまたなんか
「自己こそ最高の観客とすべし」
っちゅー意味とは違う気がするなぁ・・・
という気がした。

つまり、命題3)は解決したが、
命題2)の2つめの問題はまだ残ってるってこと。

よって、その意味合いと同じような内容の箇所はないか、
頭から世阿弥の能楽論を飛ばし読みして
みつけたのがこちらだ。

『風曲集』っちゅー
音曲に関した本なのだが、
その修行についてを中心に書いてある。

【原文】
かやうに稽古・習道を尽し尽くして、
以前申しつるごとく、
いかなる私にても、また山野・旅次などの音曲をも、
貴人の御前の心に案座して、
さて貴所参勤の即座にては、御前とは心に懸けずじて、
ただ習得しつる曲心の分力に定意して、
万人の見聞も眼は一人と案全して、
一調・二機・三声と謡ひ出だすべし。

【現代語訳】※ベースは「世阿弥能楽論集」。かなり腐人編集あり
このように稽古や研究をしつくした上で、
前にゆーたようにやね、
どんな内輪の練習の場でも、
またド田舎や場末の舞台みたいな場でも、
すべて審美眼のすごい人の前やと思てやんなはれ。
ほんで、そういうエライ人の前でやるときは、
そういう人やっちゅーことを意識せんと、
ただ、自分が習得した曲やその解釈・表現を、
力の限り発揮することだけに専念せぇ。
でもって、仮に数万の観衆がいようとも、
自分の芸をみている眼は一つやと心を落ち着けて
一調・二気・三声(※)と謡いだしなはれ。

※この一調・二気・三声については
別の書で解説があるんだが、
腐人は、能のことはどーでもええので、割愛します。
知りたい人はご自分で勉強してくださいませ。



これが近いかなぁ・・・と思ったんですが、
まだちょっと違うような気もする。

率直にゆーて、
『仕事をしたつもり』を書かはった海老原さんが、
どれのつもりでおっしゃってたのかは、
ご本人しかわかりゃーせん。

ただ、あそこに書いてあった(と思われる)
「自己こそ最高の観客とすべし」ってのは、
ブレるな!って意味では、一理あると思うんだよなー。
それを世阿弥が言っていようがいまいがね。

でも、それは同時に
独りよがりになる危険をはらんでいて、
それこそ離見の見、客観的視点を忘れるな!
っちゅー注意を、
あわせて持っとく必要があるんかもしれん。

ってもさ。
この按配が難しいんだよね。

っちゅーのも、
クリエーターの作品も、
ビジネスでイノベーションと言われることも、
あまりに時代の先を行きすぎてると、
凡人には理解できないこともある。

だからといって、
今の客が理解できて喜ぶだろーことを
生み出して、作ってってると、
あっちゅーまに時代の流れに取り残されて、
在庫の山を抱えるハメになる。


また『大東京トイボックス』の話になるけどさ、
あっこで、アベマリが、花子のことを、
「半歩先いってる」って評するでしょ。

今やろうと思ってたことをやられてる。
つまり、冬コミで出そうと思ったものを
夏コミで出されてるっちゅー。

あれ、なんだよな。
あれができたら壁サークル。

って、わからん人にはさっぱりわからん話だが、
わかる人には、「そうそうそう!」っちゅー話。

あの按配ができる人、
もしくはもっと先を見越して出せる人
(個人的には、ジョブズじゃなくって永井豪さん!)
こういう人が、時代を作ってくんだろなー・・・。


っちゅーことで。

腐人的にはこれでもう整理がついたんで、
これで、世阿弥ちゃんとは、
ぐっばいあでゅーふぉーえばー。

ああ、便秘が解消した気分だわ!←やめんかい


納得できーん!とおっしゃる方は、
すんませんが、あとはご自分で探求くださいませ。

結果、迷宮走路から出てこられなくなっても
腐人は責任もちましぇーん。
ま、それでメシ食えるならいいけどさ。

知的探求もほどほどに・・・。


以下、読書録。

●14日
(528)マンガ 『1/11 じゅういちぶんのいち 3』 中村尚儁
  いやー・・・毎回、泣かせてくれるわぁ。

  この3巻の冒頭にあるように、
  小さな物語なんだよね。

  別に、世界にでていくストライカーの話でもなく、
  熱血に国立めざすわけでもなく、
  魔球や必殺技がぽんぽこぽんと出てくるわけでもなく、
  サッカーをやる、その辺にいるような人たちのお話。

  だからこそ、ものすごーく親近感がわくし、
  ものすごーく共感できる。

  あいにくと腐人は雑誌を一切読まない人なので、
  前の掲載誌も今の掲載誌も、その特性を知りませんが、
  この作品のもつ世界観は大事にして欲しいなぁ。

  贅沢言えば、もちっと絵が上達してくれると嬉しいが、
  でも、一番のキモ部分は描けてるから
  下手に変わらないほうがいいのかな?

  ま、なにはともあれ、4巻まってまーす!
[ 2012/06/15 ] 腹黒読書 | TB(-) | CM(-)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。